〔あらすじ・内容〕
沖縄を襲った、あの激しい鉄の嵐から60年。
「島の形が変わった」といわれたほどの地上戦が繰り広げられてから、長い年月が経過した今、この島には、次々と、あの沖縄戦を記録したフィルム映像が届いています。
当時のアメリカ軍には、100人を超えるカメラマンが同行し、沖縄で行われた戦争を詳細に記録していたのです。
その沖縄戦記録フィルムには、これまで世に出てこなかった、「物語」が封印されていました。
数千本にものぼるといわれる沖縄戦記録フィルムの検証を続けている作家・上原正稔さん(62)。
上原さんは、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せる活動を続けてきました。
彼は、沖縄戦記録フィルムに残された「場所と、人物を特定したい」と考えていたのです。
「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。
ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」
そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、
生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていたのです。
上原さんの強い想いに共感した、番組スタッフは、一緒に「沖縄戦フィルム」に関する調査を開始しました。
1年半に渡り、沖縄各地で開いた上映会と、そこで得られた証言、
そして、人々の記憶と映像とを照らし合わせた結果、
フィルムに閉じこめられていた数々の「物語」が、明らかになっていきました。
集団死が初めて起きた慶留間島の映像に残されていた「せがまれて家族を殺した祖父」の姿。
最初に上陸された阿嘉島のフィルムに映っていた「捕虜となった老夫婦」の衝撃的な末路。
「井戸から救出されたこども達」の姿と、大切に保管されていた60年前の着物が語る姉妹の愛。
「600人もの命を救った女性」に届いた60年ぶりの“ありがとう”・・・。
映像を通して、過去の自分と対面した人や、懐かしい家族と再会した人々は、
堰を切ったように、長い間胸の中に封じ込めてきた想いを語り始め、
フィルムに封印されていた真実の物語は解き放たれていったのです。
〔ディレクターコメント〕
番組制作のきっかけは、『上原正稔』という、超個性的な人物との出会いでした。
沖縄戦の研究に、鬼気迫る執念を持って取り組みながら、『反戦平和なんて関係ない!』と言い放つ上原さんという人間に、惹きつけられました。
そして『沖縄戦』と向き合ううちに、僕自身が、60年前の『映像』にハマってしまいました。
アメリカ公文書館に保管されている、膨大な数の沖縄戦記録フィルムの存在は、20年以上前に話題となり、その映像は、部分的にコピーされ沖縄に届き、上映会が開かれるなどして、大きな反響を呼びました。
当時届いた記録フィルムはマスコミにも公開され、地元沖縄の新聞やテレビなどでも、度々使用されてきましたが、沖縄戦を記録した映像は、主に「戦争」という「悲惨」な記憶を表現する「手段」としてしか考えられてきませんでした。
つまり、「戦闘シーン」を中心とした「反戦平和」を訴えるための限られたシーン、「つらく」「悲しい」映像ばかりが紹介されてきたのです。
しかし、沖縄戦記録フィルムの中には、人々のたくましく生きる姿と、たくさんの笑顔が映っていました。
はじめは、『つらい思いをした当事者たちに、この映像を見せていいのか?』と、ちょっと腰が引けながら恐る恐る上映会を開き、調査を行っていたのですが、僕の心配を余所に、どの場所にいっても、『ありがとうね』という感謝の言葉が返ってきました。
戦争を追いかける取材をして、こんなに清々しい気持ちになれるとは、考えてもいませんでした。
取材を通して得た実感は、「自分の命も、あの戦争を乗り越えてきた命なんだ!」という事。
失われた命、生き抜いた命、全ての命に感謝です。
「むかし むかし この島で」ディレクター
山里孫存